訃 報
旧教員 宮崎 周 先生(2019.10.28)
訃報
旧教員 宮崎周先生が、2019(令和元)年10月28日帰天されました。
1966(昭和41)年4月から2007(平成19)年3月まで本校で教鞭(保健体育)をとられました。
また、水泳部、スキー同好会の顧問も務められました。
謹んでお知らせいたしますとともに、安らかな眠りにつかれますよう、心よりお祈り申し上げます。
宮崎 周先生を偲んで
2020年1月2日
宮崎周先生追悼の会での弔辞より
11期生 大屋 荘
昨年10月28日には突然の訃報に接し、驚きとともに深い悲しみと悔しさの気持ちでいっぱいでした。
昨年のこの日水泳部OB新年会でご体調の不良を知り、春頃から本格的な治療をされていましたね。9月頃には飲むことはできないまでも「中川」で集まろうとまで回復されて喜んでおりました。が、10月に再度入院されお見舞いに伺ったときは私から一方的に話すばかりでお声を聞くことはできませんでした。しかし、あの強靱な体力をお持ちの先生のことだからきっとまた元気なお声を拝聴できると信じて帰路に向かったことを昨日のことのように覚えています。
宮崎周先生と初めて出会ったのは、昭和41年4月の講堂、昔の体育館でした。先生は新任の体育教師で私たち11期生の体育を担当された初日。たまたま雨が降っていたために体育館でバスケットの授業だったと記憶しております。授業が終わったときに私から先生に話しかけましたね。多分先生が初めて会話を交わした生徒だと思いますがどうでしょうか。「水泳部を創りたいのですが顧問になっていただけますか?」と言うと即座に「ええなぁ、やろうやないか」と同調していただき、あとはトントン拍子に事が運びましたね。
熱心な宮崎周先生のご指導と水泳部に集まってくださった同期や後輩の懸命な姿のおかげでわずか数ヶ月後クラブとして承認され本格的なクラブ活動になっていきました。
1年目の冬に初めてプールの水を抜いたとき、あまりの汚さにしかめっ面をしながらも笑顔を見合わせたことをよく覚えています。毎日のようにプールの水を検査されていた先生のお姿も同時に思い起こされます。
その後はプールサイドに風呂が設置され、今の室内プールへと変貌していきました。
2016年には水泳部創設50周年の記念パーティー、翌年には旭日単光章の受賞パーティーとお目にかかれる機会が増え相変わらず若くて元気なお姿に接し喜んでおりました。
50周年パーティーでは60周年やろうな・・・って約束してたのに。
76歳の誕生日まで、東京オリンピックまで、できれば60周年まで。
宮崎周先生は洛星中高等学校に奉職された昭和41年から数年間毎年国体に出場され、毎年京都新聞にも「宮崎君決勝へ」という文字が躍動していましたね。
プールで泳いでおられる姿はすばらしいものでした。あの一かきでの推進力には驚きました。現役時代一緒に泳ぐことはなかったのですが、一昨年とその前年のOB夏の会でプールに集まったときに2チームに分かれてリレーをしましたね。先生と私が第一泳者で先生は飛び込まず私は飛び込んで25m泳ぎました。飛び込んだ私が15mくらいまではリードするのですが簡単に追い越され2度とも完敗しましたね。
先生は日体大のご出身とあってさすがに運動神経抜群でした。水泳のみでなくゴルフはシングル、スキーも抜群の腕前とか。ゴルフは何度かご一緒させていただきましたが、スキーでご一緒できなかったのが心残りです。
教え子の中で先生との出会いは一番古いのですが、ご一緒させていただいた時間はわずか1年足らずでした。わずかな期間でしたが大変なご迷惑をおかけしたことなど私の人生の中でも非常に濃い1年でした。そしてまだまだたくさんの思い出があります。
宮崎周先生残念ですが、最後のお別れを言う時が訪れてしまいました。
先生がお創りになった水泳部はご子息の元先生がますます立派なクラブに育ててくださり、周先生と約束した60周年さらに70・・・100周年、いや永遠に不滅です。
洛星水泳部ならびにOB会の発展を見守ってください。
さようなら、どうか安らかにお眠りください。