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10期生 栗花落 光 (つゆり ひかる) 氏

FM802の代表取締役社長 栗花落 光 (つゆり ひかる) 氏(10期生)に伺いました.

― 本日は,お忙しいところお時間をいただきありがとうございます.早速ですが,栗花落さんはバスケットボール部と伺いましたが・・・・・.
栗花落氏  ブリストル神父に誘われて,バスケットボール部に入りました.当時,校舎の真ん中に体育館(小講堂)があり,バトミントン,バレーボール,剣道,柔道が混 在していました.その中で,バスケットボール同好会も存在し、私が中学2年の時に正式なクラブになりました.当時は,ハンドボール部が小西先生の指導のも と花形でした.それに比べると,クラブというにはまだまだでした.

― 当時のバスケットボール部はどうでしたか.
栗花落氏  小講堂の壁にボードがつけられ,そこで練習をしていました.ドリブルシュートやランニングシュートをすると壁にぶつかるので,壁に足をかけて止まるような感じでした.高校3年までやりました.いつまでやってんのや.勉強しいや,の声はありましたが,続けました.高校3年の時に新講堂(大講堂=今のヴィアトール講堂)ができ,そちらにバスケットボール部も移りました.部員は7人か8人でした.高校3年の時,東山高校に128-30ぐらいで負けた思い出があります.負けたとき,ファールアウトでコートに選手は3人でした.公式戦はゼロ勝でしたが,中学2年から高校3年まで5年間,バスケットボールをやったことは私の誇りです.

― 創生期なのでいろいろ苦労があったのでは.
栗花落氏  小講堂の壁にぶつかるのは,問題でしたが,どんな練習をすればいいのかも暗中模索でした.ただ,真剣にやった.校舎の西門からでて,衣笠界隈をよくランニングをした.おかげで,いまだに足腰,特にふくらはぎの筋肉はしっかりしています.私は,クリスチャンで伏見教会によく行っていました.その教会からもたくさん洛星に来ていて,教会の先輩もバスケットボール部に所属しており,いろいろ楽しかった.とにかく真剣にやったし,その5年を今も誇りに思っています.

― 創生期と言えば,お仕事でもFM802の立ち上げにかかわられましたが・・・・・.
栗花落さん栗花落氏 1970年にFM大阪ができ,それから19年間新たなFM局は関西ではできなかった.ラジオと言えばAMが中心でした.1988年東京でJ-Waveが認可され開局しました.大都市圏でも2波目のFM局です.この翌年,FM802も産声を上げました.5地域の都市圏で第2FMが設立されました.約20年,なぜ第2FM局ができなかったのかは,はっきりわかりません.ただ,認可する側も制作する側も,ニーズがないと思っていたのでしょう.いろいろな企画を考えました.バンパーステッカーもそのひとつです.成功だったと思っています.いまだに,「バンパーステッカーのFM802ですね」と言われるのはうれしいですね.

― ラジオ・音楽の世界に入られたきっかけは,どんなことだったのでしょう.
栗花落氏 大学時代は,ジャーナリズム志望でした.就職したのはラジオ大阪です.そこで希望通り,報道に携わりました.その後,1970年代の終わりごろ,報道から制作部に関わりました.当時,ラジオ大阪は,吉本や松竹の芸人さんによる番組制作が中心でした.私は,あまりそのような制作は好みませんでした.一方,中学・高校の時にグリークラブにも所属していたので,音楽は嫌いではありませんでした.そこで,いろいろ音楽番組制作の企画書を作成しました.いろんなイベントも企画しました.企画したものがすべて番組になったわけではありません.○と言われたり×と言われました.主流は,芸能番組が中心のラジオ大阪でしたので,深夜の空いている時間にやっとやらせてもらった企画もあります.

― 希望していた報道から音楽に移られたのは,ご自身の中でどのような感じだったのでしょう.
栗花落氏  報道から離れたときは,ショックでした.ただ,私は,当時から今でも音楽はジャーナリズムだと思っています.1960年代の音楽にはメッセージ性がありました.シンガーソングライターの創る音楽には,それぞれメッセージがあり,何かを訴えています.その訴えは,政治家や政治よりもメッセージ性があるのではと思っています.そういう意味では,何かを伝える,訴えるという意味では,音楽はジャーナリズムだと思っています.この思いは,私自身今も持っていますし,内で働く人たちと共有していきたい思いです.

― 音楽は嫌いではなかったということですが,音楽との関わりは教会になるのでしょうか.
栗花落氏  当時の教会は,グレゴリアン聖歌をラテン語でうたっていました.まあ,そういえば私の音楽のルーツですね.中学時代はグリークラブにも所属していました.ラジオもよく聞きました.当時は,ビートルズがヒーローでしたが,私の当時の志向はクラシックでした.まさか,ここまで音楽に関わるとは思ってもいませんでしたが,幅広くいろいろな音楽に触れていたことは,今から考えるとよかったかな,と思っています.

― FM802が開局された当時,ラジオと言えば,オールナイトニッポンなどAM派でした.ただ,車に乗るとFM802,ということでした.私の同乗者が気に入っていたから聞いていたのですが,でも,なんとなく違う,大人びた新鮮な感じがあったことを覚えています.
栗花落氏  開局のコンセプトは「18歳の感性を大切にする」でした.これは,18歳をターゲットとするということではなく,18歳は新鮮で何物にもとらわれない,その感性を大切にていこうということでした.当時から今も,流行の音楽を流すのではなく,それこそ先に言いましたように,「メッセージ性」を大切にした選曲・番組作りをしてきたので,新鮮と受け止めてもらったのかもしれません.流行の音楽を流さないのは挑戦でしたが,サブカルチャーとしてのラジオ,地域の根ざしたFM局,そしてメッセージ性を大切にするということで,いままで取り組んでいます.全国に先駆けて“ヘビーローテーション”というものを行い,第1号にJ-walkを取り上げ、これを通じて全国区になっていきました.ひとつの地域からのメッセージの発信だと思っています.

― 独自性を出すのは大切なことですが,不安定なこともありますね.
栗花落氏  メディアは,マスメディアと言われてきました.テレビを中心とした考えでした.ただ,時代は動いています.昭和40年生まれをターゲットとした雑誌があるのをご存知ですか.今,メディアは,マスメディアからクラスメディアに移行しています.年代別ターゲットとした雑誌がその代表です.テレビは,デジタル放送の導入に伴い,ハード的にはクラスメディアを提供することが可能になりましたが,ソフト面で遅れています.ラジオは,最初にクラスメディアにならなければいけないと思っています.クラスメディアとしての生き残り考えなければなりません.そのためには,個性・独自性は必要です.ラジオだからできるチャレンジがあります.

― これからの目標は.
栗花落氏 いまだに週2,3回はライブに行きます.自分がリスナーになれるようなラジオ局を作りたいと思っています.
たまたまちょうど4年前,FM COCOLOの運営をサポートして欲しい,という依頼がありました.FM COCOLOは,関西に住む外国人をターゲットに15年ぐらい前に作られたラジオ局です.サポートといっても,競合する部分もあるわけですので,「ターゲットを変える」「外国人だけをターゲットとするのはやめる」と2条件を受け入れてもらい,サポートすることにしました.
法律で一つの会社が2波運営することは禁じられていたのですが,2年前に規制緩和でそれが可能となり,事業譲渡してもらいました.日本で1局で2波運営しているのは,ここだけです.
FM COCOLOのコンセプトは,Over 40です.期せずして,「自分がリスナーのラジオ局創り」が始まった感じです.目標は今の事業規模の倍ぐらいにはしたいと思っています.

― ありきたりですが,後輩へのメッセージをお願いします.
栗花落氏 楽しく,いい思い出ばかりではありませんが,洛星にいたことは誇りです.洛星の校風は,魅力的です.自由に何かに取り組める.在校生は,あの校風を満喫し,思い出に残るようなことをして欲しい.思い出に残るようなことがないとダメ.そのためには,常に前向きに.
仕事に就くと,何が転機になるかわからない.迷うこともあるかもしれない.私の座右の銘は,”Be positive“です.何事も前向きに受け止める.思い出に「いい」も「悪い」もないと思っています.自分がいいと思えるようにする.そのためには,前向きに全力で取り組んでほしい.

 

― 「音楽はジャーナリズム」という話に,熱い思いを感じました.常に全力で前向きに取り組んでいかれる熱い思いが伝わりました.益々のご活躍を祈念しております.


 

栗花落 光(つゆり ひかる)氏 略歴
10期生

1971.3. 同志社大学経済学部卒業
1971.4 大阪放送(ラジオ大阪)入社
1988.9 FM802設立時に入社
1993.7 同社編成部長、常務、代表取締役専務を経て
2013.6 同社代表取締役社長 現在に至る

インタビュアー
WEB委員

(2014年2月 FM802にて取材)