同窓生・恩師情報

同窓生インタビュー 多士済々な洛星出身者をご紹介します

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3期生  保科 正(ほしな ただし)氏

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株式会社アルフレックスジャパン 取締役会長 保科 正さんに伺いました.

― 本日は,お忙しい中,大変ありがとうございます.早速ですが,2010年にイタリア文化の紹介・発展に多大な貢献をされた外国人ということで,イタリア政府から「イタリア連帯の星」勲章「カヴァリエーレ章」を受けられています.イタリアに行かれたきっかけ・動機はなんだったのでしょうか?

保科氏           私の家は,医者でした.医者になるのは嫌でした.高校2年の時「家業は継がない.」とワガママを言いました.母は,オロオロしていましたが,父が「自分のやりたいことをやるがいい.」と認めてくれました.

美術に興味があり,多摩美術大学に進学しました.卒業後,デザイン会社を経て,1964年に石津謙介氏のVAN JACKETに就職しました.1966年頃,仕事上海外に行く機会が多く,たびたびヨーロッパに行っていました.海外に行くと,日本人の生活と海外の生活,特に欧米人の生活との比較をすると,あまりにも差がありました.生活の仕組み,生活の豊かさがあまりにも日本とかけ離れていると感じました.カルチャーショックを受けました.「日本は何とかしないと」と強く思うようになりました,「生活文化を日本人が日本人の手で作らないと,本当の意味での先進国になれない.」と思いました.

たまたまその時イタリア人の友人がいて,「生活や家具のことを勉強するなら,イタリアにおいでよ.」ということで,会社を辞めて,イタリアに行くことにしました.VAN JACKETをやめたことは,ワガママでした.

― カルチャーショックというと,どんなことだったのでしょうか?

保科氏           戦後,衣食住のうち,衣服は洋服になった.食べ物も洋風化された.でも,住まいだけは,変わりませんでした.畳,卓袱台,箪笥.和のスタイルそのもの.ズボンで畳に正座,不便だし,その姿がショックでした.

あと,海外ではいろいろな人が,家に招待してくれました.どんな職業の人でも,職人さんで誰でも家に招いてくれるのです.家に行くと,大理石の床があり,古いけどピカピカに手入れした食器があり,それぞれこだわって,大切にしているものがありました.当時の日本には全くそれがありませんでした.居住空間に対する思い・考えが遅れていたと思います.

日本の男性は,家を造る,家具を選ぶ,照明を選ぶ,ということはあまりしないのでは.どうですか?

学園1階中央玄関ロビーのソファーと机.学園創立50周年に保科氏から寄贈いただきました.保護者の方がよく利用されています.

学園1階中央玄関ロビーのソファーと机.学園創立50周年に保科氏から寄贈いただきました.保護者の方がよく利用されています.

― 確かに,10年前に家を建てましたが,父が当時要介護でしたので,2世帯住宅とバリアフリーについては意見を述べました.後は,省エネと費用の問題ぐらいです.基本的には,母と家内が,間取り,家具,照明,カーテン,壁紙などを決めていました.

保科氏           日本人の男性は,家を造る,家具を選ぶ,ということはしません.特に,家具や照明などを選ぶことは,男性は女性の仕事だろう,と当時は考えられていました.欧米人は,家造り,家具選びは家族でやる,みんなで決める,という姿勢です.戦前のライフスタイルを引きずっている,と思っていました.食と服飾は,洋風になったのに,住に対する考え方も変えないと本当の意味での先進国になれない,と思っていました.1969年,アルフレックス ジャパンを設立しました.設立時の思いは,「生活とはどうあるべきなのか」を思考・提案するということでした.

― 衣食住のうち,どうして住だけ取り残されたのでしょう?

保科氏           やはり日本文化は,長年培われたものです.日本文化は,木造文化.すなわち,木造住居に対する水回りをどうするか,ということがカギになります.住居では,従来水回りは1階という考えでした.その考え方は,マンションや鉄筋の住宅に引き継がれていきました.マンションでも,玄関に入ってすぐにトイレ・バスがあります.変だと思いませんか.本来は寝室の横にバスやトイレがあるべきです.欧米では,機能性でバスやトイレの位置が決められていますが,日本では水回りということが優先されてきました.最近ようやく機能的なものになってきました.

― 独創的な家具を提案し続けられていますが,これは,イタリア文化に根差した考えなのでしょうか?

保科氏           機能性ということは,考えています.イタリアでの修業したことがベースにあることも事実です.ただし,単純にイタリアの内容を日本に押し付けてもダメです.当初は,イタリア式で家具を提案していたのですが,1971年,日本らしさを加味したもの打ち出していきました.それにより,ソファーの販売が増加しました.なんとかやっていける,という手ごたえをつかみました.日本オリジナル.「イタリア生まれの日本育ち」といったところでしょうか.イタリアの感覚,日本の生活感,これらをうまく併せることができたと思っています.

ただ,本当にやっていけると思ったのは,その時ではありません.会社越して10年は,本当にしんどかった.1980年頃からやっとやっていけると感じるようになりました.ただ,1971年は,私としては手ごたえをつかんだのは事実です.

― よく,海外に比べて日本の家屋は小さいと言われます.欧米スタイルの家具を日本に入れるということは,スペースの問題が障壁になるのではないでしょうか?

保科氏           部屋の大きさよりも,内容が違うというのが問題だと思います.畳と木の文化.腰かける文化が日本にはなかった.部屋が小さいというのは,それはそれで機能的な面もあります.問題はトータルの機能です.欧米の住宅文化は,トータル機能に根差したものだと思います.

また,自分たちの生活している姿を見せる.それが財産で,いきていくうえでの文化だ,という考えがあるようです.一方,日本では,家や生活を見せることは,なんとなく恥ずかしいと考えるのかもしれません.欧米では,恥ずかしいことではないのです.イタリアにいる時,工員さんが家でももてなしてくれました.どんな人でも,友人をwelcomeというころで家に招き,家の中を見せ,生活そのものを見せるのです.それが,おもてなしです.ありのままを召せることが,おもてなしです.ダイニングは,コミュニケーションの場となります.

2階職員室前.これらも学園50周年に寄贈いただきました.生徒と先生の交流の場です.

2階職員室前.これらも学園50周年に寄贈いただきました.生徒と先生の交流の場です.

― 海外では私も家庭に招かれるのですが,一方で,お客さんが来たとき,なかなか招きません.「十分なもてなしが・・・・・」と思ってしまいます.

保科氏           海外の人は,どんな形でも「家に呼んでくれた」「招いてくれた」ということを喜びます.外のいいレストランに招くよりも,よりよいおもてなしだと多くの欧米人は感じるでしょう.外のレストランに招くと,「あなたは家に呼べません」ということ理解なるかも.極端かも知れませんが.

ただ,最近,東京やその周辺在住の30代の家庭では,かなり日頃から家に招いてホームパーティーが開かれています.徐々に変わってきているのも事実です.

― もし,京都で会社を設立されていたらどうなっていたでしょう.

保科氏           京都は保守的です.京都だったら会社は立ち上がらなかったと思います.最近は,少しずつ京都にも豪華なマンションが建設されつつありますが,京都に豪華のマンションは,あまりありませんでした.東京とは異なります.東京は,合理的で生活しやすい.もちろん,情緒があるのは京都です.合理性や機能性を提案したのですから,今から考えても京都での会社の設立は難しかったと思います.応援・理解者が得られなかったのではないでしょうか?事実,京都には未だにシュールームがありません.

― このインタビューで一桁の期の人は初めてです.創成期の洛星は,入学する側からするとどんな学校なのかわからないと思うのですが,どうして洛星を選ばれたのでしょうか?

保科氏           最初にも言いましたが,家は医者でした.母親が,私に医者を継がせたくってどうしようもなかったようです.洛星は,第1期生から医者の子息が多く入学されたようです.今でもそうかもしれませんが,医者になるには洛星がいい,ということを母親がどこからか聞きつけてきて,入学させられた次第です.ただ,勉強は嫌いだった.

― 在学中は,何かに没頭されましたか?

保科氏           クラブは,剣道部でした.しかし,当時はいい加減なものでクラブといえるようなものでありませんでした.放課後,なんとなくどこかのクラブに所属しようということで行ったところが剣道部,というような感じです.それより,高校生は,海外にどんどん行って欲しいですね.

― どうして海外なのでしょうか.

保科氏           まず,海外住んでもらいたい.どこでもいいと思います.日本を離れて,海外から日本を見る.日本と韓国,日本と中国の関係を海外から見ると,また違った感覚になると思います.外から日本を見ることが必要です.特に若いうちは.

― 現在,洛星では同窓会の支援も含めて,中高生が海外に出ることを色々企画されています.

保科さんと会社の歩みが記された本です.

保科さんと会社の歩みが記された本です.

保科氏           それはいいことです.さすがですね.

住まいに客を入れるか否かは,海外に住んでみれば,考えが変わると思います.バリアがなくなります.海外に在住あるいは英語のスクールに行くと日本語が下手になると言われますが,それはおかしいと思います.日本人である前に,国際人であるべきだと思います.

逆に海外に2年住めば,より日本が好きになると思いますよ.是非,若いうちに海外に出てほしいと思います.

― お忙しいところ,本日はありがとうございました.益々のご活躍を祈念しております.

伝統がある保守的な京都で生まれ育ちながら,日本の住環境はこのままでは先進国になれない,何とかしなければ,という熱い気持ちで今日まで歩まれてこられました.”arflex, lo, Italia”(アルフレックスと私とイタリアと):保科正著(集英社インターナショナル,ISBN4-7996-7020-7)に保科さんの人生の開拓が記されています.

 

保科 正 氏         略歴  
 3期生  
1963年(昭和38年) 多摩美術大学卒業(図案科)
  株式会社 東京グラフィック・デザイナーズ入社
1965年(昭和40年) 株式会社 ヴァン・ジャケット入社
1967年(昭和42年) 渡伊,アルフレックス イタリア社に入社
1969年(昭和44年) 株式会社アルフレックスジャパン設立
1978年(昭和53年) 株式会社アルフレックスジャパン代表取締役に就任
1997年(平成9年) 株式会社アルフレックスジャパン代表取締役を退任
1998年(平成10年) 北マリアナ現地法人<Coral Ocean Design Inc.>(C.O.D.)を設立代表取締役社長に就任
2005(平成17年年) 株式会社アルフレックスジャパン代表取締役に再任
2013年(平成25年) 株式会社アルフレックスジャパン 取締役会長に就任 現在に至る

インタビュアー
WEB委員

(2014/8/28 アルフレックス ショップ東京にて)