同窓生・恩師情報

同窓生インタビュー 多士済々な洛星出身者をご紹介します

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13期生 濱田 翼 (はまだ たすく)氏 

濱田 翼 氏(13期生)に伺いました.

― ある記事で,濱田さんの音楽の原点は洛星にあると読みました.

濱田氏 洛星の6年間は,文化祭,体育祭,クラブ活動,多くのイベントに積極的に参加していました.音楽だけではないけど,これが僕の原点です。一方,6年間で勉強した記憶はあまりない。ただ,さぼったこともない.6年間,精勤で表彰されたほど。這ってでも学校には行く,という生徒だった.授業中は暇だったけれど部活は一生懸命.体育祭,文化祭,そして球技大会のシーズンの秋は体がいくつあっても足りなかった.秋は本当に忙しかった.

― 文化祭の思い出は.

濱田氏 M1の演劇でキャストをして,個人演技賞をもらいました.雷の役で.

― 我々の頃は,演劇の個人賞はありませんでしたよ.

濱田氏 合唱はコンクールで順位づけがあったし,演劇にも個人表彰があった.M2,M3は合唱指揮者、H1で演劇キャスト.兎に角,文化祭は忙しかった.文化祭に,芸能第二部というのがあって,バンドが出演して,ポップス,ジャズやロックを演奏するのだけれど,合唱コンクール・演劇が第一部でそれ以外は第二部.二部という言い方が気に入らなかった.

― 音楽か何かをやられたのですか?

濱田氏 バンドを組んで,ポップスを演奏しました.キーボードを担当したけれど,ピアノを習ったことはなく,自分なりに見よう見真似だったけれど,とても楽しかった.同期の野上君はプロになりそうなぐらいギターがうまかった.今でも記憶に残っています.

― クラブは何をされていたのですが?

濱田氏 オーケストラ部に所属していました。実は,4人姉弟で,姉2人と妹はみんなピアノを習っていた.母は,洛星のママコーラスのメンバー.祖母が琴をやっていた.音楽はとても身近だったけれど,ピアノは避けていた.小学生の頃,姉たちの発表会に連れて行かれるのはとても苦痛だった.

― オーケストラでは,何を演奏されていたのですが.

濱田氏 ピアノには反抗していたが,実際は,大の楽器好き.オーケストラでは,コントラバスをやっていた.主旋律ではないが,楽曲を支えるという黒子としての役割に快感があった.前面に出ないのが,シブィと思っていた.備品のコントラバスが鳴らなかったので,月賦で買って部室に持ち込んだら,「コンバスを自分で買う生徒はいないよ」と小笠原先生に言われました.楽器好きなので,練習終わってから他の楽器を引っ張り出して演奏していた.

― どうして,洛星に進学されたのでしょう.

濱田氏 同志社幼稚園に通っていたけど,幼稚園の先輩2人が洛星に進学された.母親がその保護者から,「とてもいい学校だ」という評判を聞いて受験することになった.学生服が紺だったのも気に入って,あこがれて受験した.人生で一番勉強したのは,洛星受験前の秋冬だけかな.人生で一番勉強したのは,その時だけだと思う.

― 在学中の印象は?

濱田氏 先にも述べたが,体育祭,文化祭,クラブ活動など,ほんとに盛りだくさんだった.そしていつも音楽があった。イベント好き音楽好きにとっては,素晴らしい学校だった.球技大会は,全ての競技にエントリーしていた.修道院行事も含めて,イベント系はグランドスラマーだった.

M1のクリスマスイブに深夜ミサに参加した.強烈な印象だった.夜遅くに集合して,午前0時、クリスマスになるとミサが始まる。教室から蝋燭を持って講堂に集合する.グラウンドから窓越しにその列を見たらきれいだろうな,と思って,こっそり抜け出して写真を撮った覚えがある.深夜ミサ.午前1時に終了.近所の生徒は帰れるが,帰れない生徒は,体育館でBINGO大会だった.当時は,BINGOなんて,普通の人は知らなかった.学校には使い捨てではない窓付きの立派なカードあって,朝までやった覚えがある.ハイカラな学校やな,と思った.

― 大学在学中,音楽には親しまれと思います.就職先に日本航空(JAL)を選ばれた理由は?お名前が,「翼」だけにそうされたのでしょうか?

濱田氏 いやそうではなくて.就職活動の時,「JALは人・物だけでなく,文化も運ぶ.」という説明に,心が動いた.「文化を運ぶ」というフレーズが,それまでの自分に合っているような気がして,それに反応して入社した.

― 希望の仕事はいつ頃から?

濱田氏 30歳過ぎに希望していたスポーツ・カルチャーデスクという部署に移ることができた.それまでは,予約・発券等,所謂航空会社の営業の仕事だったが,年齢的にも自分の力をストレートに発揮できる頃に呼んでもらえることができた.その時,この仕事を長くしたいと思いました.

スポーツ・カルチャーデスクは,受け身のセールスではない.面白いイベントを発掘し,紹介し,そこに人を運ぶ.世界中のイベントに人を運ぶ仕事でした. オーケストラやJAZZミュージシャンの招聘.ホノルルマラソンもJALのスポーツ・カルチャーデスクで手掛けたものです.1987年には,既に1万人ぐ らい参加者がいたと思います.ホノルルマラソンは,時間制限がない.日本人は,42.195kmにとてもこだわりがあり,自分は世界記録の何倍かかったと か,フルマラソンを完走しないと得られない楽しみがあった.そういう意味で,時間制限のないホノルルマラソンは,日本人に受け入れられたのだと思う.それ と,もちろんハワイの魅力があっての事ですが・・・・・.

― JALに乗らないと参加できないとか?

濱田氏 それが出来ていれば社長表彰!残念ながら機材が足りない.本当はそうしたいところだけどね.多くの航空会社にお裾分け.JALでないとだめ,という発想はありました.JALに乗るインセンティブをどうするのか,いつも考えていた.「ホノルルマラソンに参加するならJALに乗る」と同じ発想だね.それで,JALの東京-ニューヨーク便でしか見られない映画の企画もたてた.某世界的に有名な女性に協力してもらって.これは,残念だけど,表に出なかったな.今の時代なら,いい映画として受け入れてもらえそうなのだが・・・・・・・.

― 経歴の中で札幌とのかかわりがありますね.また,音楽とは異なるプロサッカーチームの立ち上げにGMとしてかかわっておられますよね.

濱田氏 いろいろなことを仕掛けたり,作るのが好きだった.また,そういうことを気の合う仲間とするのが好きだった.新しいことをすれば,仲間の新たな価値がわかる.仲間の良さがわかる.それの手助けをするのが好きだった.洛星の体育祭・文化祭の時も同じ.コントラバスも同じで,主旋律ではなくでも曲を支える.それが好きだった.札幌支店に勤務しているときに,いろいろな機会に恵まれた.札幌は,都市として魅力を十分備えているのに,機能が不足している部分があった.周辺も含めて200万人いるのだから,プロスポーツチームがあってもいいと思っていました.

― YOSAKOIソーランを立ち上げに関わられたきっかけは?

濱田氏 愛知県出身の北大の学生が在学中,高知医大病院に入院していた母親の見舞いに行った.そこで,高知のよさこい祭りに触れることになった.よさこいのルールは至って簡単.よさこい節のワンフレーズと鳴子を使う.地方車(じかたしゃ)のあとに30 ~ 100人ぐらいのチームがそれぞれ隊列を組み踊る.それを見たその学生は,鳥肌がたったそうです.札幌には,その種の祭りがない.よさこい節をソーラン節に変えれば,と彼は考えた.大学でみんなに声をかけたが,なかなか賛同は得られなかった.その事が新聞記事に掲載されていて,彼の電話番号が記されていた.すぐに電話をした.

― どうして,電話をされたのですが?

濱田氏 純粋に,単純に,面白そうだと思った.ただ,それだけだったような気がする.いろいろなノウハウを彼に伝えた.彼は,JALからの連絡ということで,とても感激していたようだった.こちらもその気になって来て,会社に企画を出した.「大きなイベントになれば,北海道に人が来る.また,YOSAKOIソーランチームが全国に遠征する.それはJALにとってプラス.」という感じで.これも,コントラバスと同じで表に出すぎずしっかり仕切るのが面白い.去年から沖縄で始めたYOSAKOIチームと地元子供エイサーチームとのコラボイベント「エイサーYOSAKOI」は本当に面白いと思う.

― サッカーは?

濱田氏 1992年に札幌に赴任して,翌年1993年にJリーグが開幕した.プロ野球一辺倒の日本にとって,Jリーグの誕生は新鮮で日本中にワクワク感があった.札幌は,プロスポーツを持つに十分な都市だが,雪の問題があった.だから,「施設が無い.興業的にもうまくいかない」という固定観念で誰も動かない.でも,札幌にはプロスポーツはあるべきだと思っていた.日本中のワクワク感に取り残されてはいけない,と思った.

Jリーグがスタートした時以来,JALは清水エスパルスのスポンサーです.当時,ANAは横浜フリューゲルス(前身は全日空クラブ)というチームのスポンサーで,対抗上,JALは市民球団だった清水エスパルスのスポンサーとなった.ただ,清水は静岡県で,当時,空港がなく,遠征はバスか電車,サポーターもバスか電車だった.札幌にチームが出来れば,遠征は飛行機,サポーターも飛行機になる.これで会社に企画書を出した.

― 企画書は無事に通りましたか.

濱田氏 僕の企画書は基本的に短い.企画書は長ければ良いと言うものではない.大事なことは4-5枚程度あれば書き込める.コンサドーレの時は,3枚だった.でも,通った.会社は応援してくれた.洛星のサッカー部を作ったのは13期だった.何かの縁を感じた.Jリーグの川淵三郎氏が,いろいろ教えてくれた.最初からチームを作ると北海道4部から始めなければならない.川淵さんからJ2の東芝が,廃部を考えている,という情報をもらって,移転するように交渉に出かけた.ただ,チームごと札幌に来てもらうには,資金がいる.その時,白い恋人の石屋製菓社長はじめ地元の多くの方々の賛同・協力を得られた.

― 苦労があったのですね.

濱田氏 やはり,雪の問題はどうしようもなかった.結局,ホームゲームを愛媛でやったり,長崎でやったり,Jリーグの精神の一つである地元密着という点では難しかった.ドームが出来て,その問題は解消されたが,最初は大変だった.コンサドーレの成功があったから,日本ハムの札幌移転の後押しとなった.ドームも大きいが,コンサドーレの成功も大きいと思う.

プロ球団を二つ持ったので,大都市としての標準装備も整った.

― 歴史的なイベントの立ち上げられた,という感じがするのですが.

濱田氏 自分としては,楽しめた,と思っている.人が好きで,その好きな人をHAPPYにさせる事が好きだった.そして,上質のエンターテイメントを手掛けたかった.上質であることはとても大切な事.その感覚は洛星の時代から,上質の世界に接することができたからかな.オーケストラは,中高混在だったのでコンクールには出られなかったが,とてもハイレベルだったし,上質だった.

今はJALを退社して,映像・音楽制作・イベント企画制作をしている.最近では北海道美瑛町でセンチュリーライド(100マイルを走る)の企画制作をしている.いずれにしても,今もいいもの,上質を目指しています.

― 後輩へのメッセージをお願いします.

濱田氏 勉強は大切だが,勉強以外の洛星を楽しんでほしい.他の学校はわからないけど,洛星は音楽・スポーツだけではなく,様々な楽しみ方ができるイベントが盛りだくさんの学校だと思う.私はそこで多くの事を学び,良い仲間をつくり,今につながる礎ができた.成長期の大事な時期をそこで過ごしたのは,本当によかったと思っている.

― 同窓会活動が,盛んなようですね.

濱田氏 13期生は,毎年,京都と東京で集まっています。京都は,同窓生のお店で.そして,5年に1回は,有馬温泉で大宴会.これも,同窓生が経営する旅館に集まる.毎回90人ぐらいは来ます.もちろん私は幹事です.年齢的に今は同窓会が楽しくなる時期だと思っています.次回の有馬温泉での大同窓会には,卒業以来今まで来たことがないか,めったに人前に現れない同窓生を一人でも多く引っ張り出そうと画策しています.

― 90人が集まるのに,一人連れてくると,180人ですね.

濱田氏 最近はさすがに忘れだしたけど,同窓生全員の名前をフルネームで覚えているし,一人一人がM1からH3まで何クラスだったかを覚えている.「変なヤツ」と同級生に言われるけど,なぜだか覚えている.本人が忘れていても・・・・・.在学中,文化祭,体育祭,球技大会でそれぞれが何をしているのかが気になったので,自然と覚えていったのだと思う.洛星のステージを本当にEnjoyしたと思う.

ところで,洛星の校歌はユニークだと思わない?

― どういうことですか?

濱田氏 歌詞がウラから入るでしょう.中学の入学式の時に不思議な曲だと思いました.

― すみません.全く気づきませんでした.音楽家だからでしょうね.本日は,ありがとうございました.

YOSAKOIソーラン祭りやコンサドーレ札幌の立ち上げなど,ある意味歴史に名を残すようなお仕事をされていた方が,同窓生におられるということで驚きました.濱田さんご自身は,コントラバスで主旋律を奏でない,みんなの応援,ということでしたが,その人生は常に先頭でタクトを振られているように思いました.


濱田 翼 氏 略歴

13期生

1975.3. 慶応義塾大学法学部卒業
1975.4. 日本航空(JAL)株式会社入社,宣伝販促業務,スポーツ・音楽イベント業務を担当
1988.?. JAL社員バンド「タキシードジャンクション」を結成し.渡辺貞夫氏と共演.
1990. 丸の内の若手ビジネスマンとJAL客室乗務員で構成した「丸の内スーパーバンド」をプロデュース.テレビ朝日「ニュースステーション」に生出演.シドニー公演.東芝EMIよりアルバム「オフィス街に朝が来る」,シングル「FAR AWAY」をリリース.
1992. 日本航空株式会社札幌支店勤務,「YOSAKOIソーラン祭り」立ち上げにアドバイザー
1994. 札幌にJリーグチームを誕生させるプロジェクトチームを組織.プロサッカー チーム「コンサドーレ札幌」GMに就任.
2001. 日本航空株式会社に復職.本社マーケティング企画部,株式会社JALブランド コミュニケーション機内エンターテイメント部において,多くの音楽イベント や機内エンターテイメントをプロデュース.ビデオプログラム「KAMAKURA 鎌倉」は世界機内エンターテイメント品評会(05年ハンブルグ)においてグランプリを受賞.
2003. JAL・JAS統合記念バンド「JJ」を率いて新宿厚生年金会館で公演
2006. 音楽・映像プロデュースに専念するため日本航空株式会社を退社.音楽・映像 企画制作会社(株)タスクプランニングを設立.今日に至る.

インタビュアー
WEB委員

(2014/5/23 京都大学東京オフィスにて)